不登校のお子さんのいるご家庭へ
親子で笑顔になる不登校克服メソッド
保護者の方や職場で悩んでいる先生方へ
カウンセリングを提供しています。
自分でいうのも変ですが、幼稚園までは
明るく普通の子供でした。
でも参観日で絵描きをしている時に後ろから
「この子ギッチョ(左利き)だわ(笑)」
とささやくような声が聞こえました。
「みんなと違うんだ」
「変な子なんだ」
とショックを受けました。
泣きながら、右手で字を書けるように矯正しました。
小学校に就学してからは
“みゆき”という名前だけでからかわれたり
イジメによく合いました。
言い返すものなら殴り合いのケンカになり
多勢に無勢で負けてばかりでした。
そういう時に限って家に帰ってから
妹やいとこに八つ当たりをしてました。
泣きながら名前を変えてほしいと
母親に問い詰めたときもありました。
母親は普段は優しく書字もきれいだったので
夏休みの宿題などよく見てもらいました。
でもお小遣いの無駄遣いをしたときなど
叱る時は暗い押入れに閉じ込め「ごめんなさい!」
と泣いて謝るまで許してはくれませんでした。
そんな時からなにをするにしても「我慢」ということを
無意識にするようになったようです。
友達はもちろんいましたが
一人で遊んでいる方が多かったです。
人と接するとまた嫌な思いをするだろうと
無意識のうちに思考・判断していたのだとおもいます。
家に閉じこもってばかりいたわけでは
ありませんが、「人と話すこと」が苦手になりました。
中学・高校でも
周りが大きな声で笑っていても
同じように口を開けて大声で笑うようなことも
少なくなりました。
両親の喧嘩が絶えず、父が激しく母を責めていたのでよく
仲裁に入っていました。
原因は事業資金について、銀行
だけでなく個人からの借金のこ
ととか親戚づきあいのことで折
り合いがつかなかったようで、
ひどい時には止めに入り父親の
浴衣の袖を引張って破ったこと
もありましたが、その時父親が
なぜか泣き崩れたのを今でも思
い出します。
母親も当然泣き伏していました
が、喧嘩の原因がやはり経済的
なことと親戚づきあいのことだ
ったようです。
高校三年生 神経性の腹痛で登校拒否になる
神経質なところもあったのでよく
下痢を繰り返したり、鼻の粘膜が
弱く鼻血が止まらないことがたび
たびありましたが、甘えだとしか
見られず、夏休み明けから一時期
不登校になりました。
今でいう「過敏性大腸症候群」だったかもしれません。鼻血は一回出始めると本当に止まらず洗面台が血の塊で赤くなるほどの時もあったのですが、誰も見ていないので信じてくれなかったです。親や姉妹からも変な目で見られ、今みたいな心療内科もなかった時代で内科では異常は見られず精神科に連れていかれたこともありました。(運動療法みたいなこともやらされましたが…)
それをきっかけに誰にも頼れないなとかんがえるようになり、あきらめ
と絶望のなかで、少しずつ登校する
ようにしました。
周りの目やささやき声が気になった
り、いい子でいなければという意識
が強かったのかなと思います。
大学進学も考えていたので受験勉強(残り少なかったが)を自分なりに頑張ってやりました。
大学生活5年間
進学しなきゃよかった?
希望していた体育系の大学に合格し
たは良かったのですが2か月も立た
ないうちに胆石症にな り、寝返り
もうてないような時期があり下宿生
活だったのでこのままではやってい
けないと中退することも考えまし
た。
ただ、「せっかく入学できたのにこ
のままでは帰省できないな。」と、
あきらめずに大学生活を続けようと
決心しなおしましたが、
目標や目的を失い、
やっぱり自分はダメなんだ、
なにをやっても中途半端なんだ
と自暴自棄になり
本業の学生生活をそっちのけで
アルバイトや夜な夜な酒を飲み歩いたり
バイクで遊びまわったり
と荒れた生活を過ごした時もありました。
考え方や気持ちの変化があったのは
4年生時の教育実習です。
単位習得のために絶対通らなければいけないことでもあったし故郷の高
校で実施することでもあったので気
楽な気持ちでいました。
現実はそう楽ではありません。
厳しい指導教官もいれば指導案など
書類作成はまだワープロもなかった
時代ですから全て手書きで余白がま
ったくない位に仕上げないと再提出
になりました。
今までの軽い気持ちのままでいたこ
とが恥ずかしいくらいでした。
でも辛かったけど生徒とをやってい
く中で楽しかったことも多くそのこ
とがきっかけでやはり体育の教員を
目指そうと考えるようになりまし
た。
でも、病気や荒れた時期の欠席が多く単位不足も影響し留年しました。
両親には仕送りの面でも負担をかけ
ることになったので再度故郷に帰り
説得して納得してもう1年間だけ大
学を続けさせてもらいました。
でも、その時に大学をやめて父親の
事業を継いでいれば人生が変わって
いたかもしれません。
1年間、授業と採用試験の勉強を頑張りました。そして、2回目の4年生時に現在地での採用試験を受験し
合格はしました。
故郷の採用人数が少なかったことも
一つの要因ですが・・・
しかし、非常勤の職しかなく大学の
教授に相談し、残るか地元に帰るか
迷った挙句、地元に帰っても当てが
なかったので非常勤を続けながら再
度採用試験に挑戦し、2度目の合格となりました。
(いわゆる就職浪人です。)
そして、正式に教員生活を送ることになったのです。
教員生活スタート不登校の生徒の出現でピンチ!
最初の1年間は職務になれるためも
あってクラスの担任にはなれません
でしたが、ある部活動の顧問として
生徒と一緒に活動するのが楽しかっ
たです。
2年目にクラスを持つことになり頑
張ろうと思った矢先に、入学早々不
登校の男子生徒が現れました。
入学して1ヶ月も立たないうちに休
みがちになり、保護者との応対で
「欠席していますが、どうしたので
すか?」と聞いても「体調が悪い」
と最初のうちは話していましたが、
日増しに休みが多くなり、母親の話
では「学校になじめない。」と本人が言っているとのことでした。
まず、「休む時は朝必ず連絡してく
ださい。」
と母親に伝え、次の日から対応に追
われるようになりました。
朝の職員のうち合わせの時間に電話
が来るようになり当時、職員室に1
台しかなく管理職の机の陰に隠れて
応対していたのでちょっと恥ずかし
かったのを覚えています。
また、家庭訪問することももちろん
ありました。
でも、当然登校していないし、無口な方だったので「友達ができない」「クラスの子と話ができない」という返事が返ってくるだけでした。
母親がかなり疲れていました。
粘り強く本人と話を続けクラスの男
子にも協力を求めたりした結果、2
学期以降段々登校するようになって
くれるようになり、何とか進級、そ
して卒業まで出来ました。
若かったせいもあり、教員として何とかしなくてはと思い行動していたので、さほどその時は疲れも感じなかったのですが、
保護者は毎日学校に登校してほしい気持ちばかりでかなり気疲れしてい
たようでした。
卒業するときには本人はケロッとし
ていましたが、母親はやっぱりうれ
しかったのでしょう。
挨拶にきてくれました。
教師冥利につきました。
父の死
誕生と死、そして・・・
自己破産、
妻とのすれ違い
最初の学校は6年間勤務し、転勤して4年目の時に結婚、長女も誕生したました。
しかし、
次の年の春、父親の胃がんが発覚、末期であると母親から連絡があり
ショックを受けました。
病院嫌いで、熱があっても仕事をする人でしたが、さすがに痛みがひどかったようです。
すがる思いで噂に聞いた日本医科大
学の「丸山ワクチン」を治療に役立
てもらうように東京で薬効やワクチ
ンの検体者としての説明を受け購入
地元病院の主治医に渡しましたが
主治医が臨床数が少なく効果を信じ
ていないと言い、1回も使用するこ
とがありませんでした、
その年の12月に父親が死去、その後
1億円余りの借金があることがわか
り、母親も泣き崩れるばかりでどう
してよいかわからず私自身も唖然と
しました。
次の年に次女も誕生しましたが、夏
は有休を全部とり妻の実家に親子を預け一人で帰郷して事業を手伝いま
した。
教員を辞める決心もしていました。
(個人経営のガソリンスタンドで
母親には無理だと誰しも思っていました)
が、借金の額や周囲の反対もあり結
局、母親と妹二人で自己破産手続き
と財産放棄の道をとることになりま
した。
その分、こちらに銀行や債権者、親
会社から頻繁に夜中でも電話が来る
ので妻も電話が鳴るたびにヒステリ
ックになっていきました。
母親と妹二人は裁判所で親戚からも
罵倒され続けられたりしていたよう
です。長男として力のなさを痛感し
ました。
自分は弁護士より連絡があり、借金
は負わずに済んで7年ほど裁判が続
きました。
母親は年金の掛け金すら事業の資金
として使われていたようです。
なんとか決着ついたのですが妻は
2人の子の子育てもあり、ますま
すヒステリックになって会話も少
なくなっていきました。
身体の異変
また、自分自身も身体の変調時期がありました。
高校、大学の時だけでなく、 30代の時は気管支拡張症で何回も肺炎に
なり苦しみそのたびに抗生物質を処
方され当然仕事にも行けませんでし
た。
左耳の内耳の変調で感覚がおかしくなりめまいだけでなく、まっすぐに
歩けないこともあり、年齢と共に身体が悲鳴を上げるのです。
また、転勤を4回経験して5校目の
2年目に両手が時々痺れるので検査
したら脊柱管狭窄症と診断され頸椎
を手術入院、3年ほど治療に費やし
ました。今でも多少、身体に変化が
あります。
最悪でした。
その後、しばらくは何事もなく過ご
していましたが、
毎年必須の定期健康診断でいつもは
胃のバリウム検査を受診していたの
ですが、
何か気になって内視鏡検査に変更し
て受けてみたら
なんと食道にがんらしきものが見つ
かり、至急再検査をしてもらったら
上皮にがん細胞がみつかり早期だっ
たこともあったのですぐに除去する
ために入院手術しました。
周囲にはまだ、がんになりそうな部
位もあるとのことで現在も定期的に
検査しています。
そして「うつ症状」
まさか自分がなるとは思わなかった!
自分自身も職場での人間関係や仕事
量の過重負担、家庭の問題などが原
因でココロが参ってしまい「うつ」
と診断され通院することになりまし
たが、周囲には明かさず通常業務に
従事しながら薬物治療を続けていま
した。
しかし、結局ドクターから
「3か月療養をしなさい」
と宣告され診断書を出されました。
仕事人間ですから、休むことにかなり抵抗がありました。
最初の1ヶ月はあっという間に過ぎ
てしまった。
ドクターからは「ボーッとしていな
さい」と言われていましたが、どう
しても仕事のことが気になって落ち
着かなかったです。
2ヶ月目から「自分一人では完璧に
仕事は解決は出来ないんだから」と
考え始め、復帰した後周囲に助けを
求めながら業務に従事しました。
自分の敷地から出ないように少しは
気持ちをコントロールできるように
なったのかなと感じました。
その時に以前から関心があった「心
理カウンセラー」についてもっと知
りたいと思いました。
その間、同じような思いでいる教員
や保護者が全国には多くいるのだろ
うと思い、さらに心理学を学ぶべき
だと思い始めました。
退職したのちに少しでも社会に貢献
できるかもしれないと考え始めまし
た。
不登校問題、職場や家庭での人間関
係など同じように辛い思いでいる保
護者や先生方が全国には多くいる。
だからもっと自分が学び、少しでも
寄り添い社会に貢献しなければと考
えたのです。
自分自身も周りを意識することがあ
ります。
未来に進むためには自己肯定感をもっと持つことが大切
何でも完璧には出来ない
思考だけが先に行き行動が後になる
ことも多いのは、
ココロにゆとりがなかったのだろう。
そして
自信とは自分を信じて行動し、生きること
だと思います。
これから
教員生活に長く従事して思うことは
学校になじめないことだけでなく、
色々な理由で小学校から高校まで不
登校の子がかなり増えています。
引きこもりも増加しています。
中退する子や通信制に進路変更する
子どもたちが増加しています。
選択肢の一つで間違いではありません。
ただ、その人数の分だけのおかあさんが
悩みや苛立ちがあると思います。
だから、この長い教員生活の経験を生かして心理面か
らのアプローチが必要だと思い、親子で笑顔になる不
登校克服メソッド、など親子の適切な距離感を保つ
ワーク、ストレスを解消するイメージセラピー
そして教員としても自己肯定感をもって自信が
持てるワークを提供していきますので
悩んでいるお母さん…
あせらずゆっくりと
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